東洋史研究会大会
2022年度 東洋史研究会大会
日 程:2022年11月6日(日)
時 間:午前10時~午後5時
会 場:京都大学文学研究科 第3講義室 ※オンラインも併用します。
午前の部 | 午前10時~12時 |
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宗 周太郎 | 「戦国秦漢期の交通路管理」 |
岡田 和一郎 | 「戸調制から「均田」課税へ」 |
閻 立 | 「清末東三省の建省と官制改革」 |
午後の部(1) | 午後1時~2時45分 |
田中 悠子 | 「イスラーム初期史における異端者像の「構築」とその「利用」 ――「ズィンディーク」と呼ばれるならず者の分析から――」 |
𠮷村 武典 |
「前近代カイロの都市水利と行政慣行 ――エジプト国立文書館所蔵「水利請願書‘arḍḥāl」に見る運河整備を中心として――」 |
太田 淳 | 「19世紀後半の北スラウェシ・マナドにおける貿易構造の変容 」 |
午後の部(2) | 午後3時15分~5時 |
井上 正夫 | 「宋銭と為替から見た東アジア経済史 」 |
劉 序楓 | 「清代中期の長崎貿易における中国商品の流通経路――商品の商標・広告などを手掛かりに――」 |
岩井 茂樹 | 「天朝の理念と戦略としての朝貢関係」 |
参加方法
① 大会への参加にはWeb上での事前登録が必要です。会場で参加される方も同様です。なお、会場参加には人数制限がありますので、ご希望の方は早めにお申し込みください。
登録申請フォームには下記のアドレスまたはQRコードからお入りください。
参加は無料です。どなたでも参加できます。
② Zoomを初めてご利用なさる方は、アプリのインストールが必要になります。Zoomのサポートページからお使いの端末の種類に応じてアプリをインストールしてください。
・PCから接続される方はこちら
・iphone/ipadで接続される方はこちら
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③ 申請フォームは下記のアドレスからお入り下さい。 締め切りは10月31日(月)です。
https://forms.gle/6qU2X5SmddkKHBZJ7
④ 発表者のレジュメは、対面参加者には紙媒体で配布、オンライン参加者には当日のみ公開する「専用サイト」からアクセスしていただきます。「専用サイト」のアドレスは、申請フォームの入力後、自動送信されるメール内で通知致します。
発表要旨
戦国秦漢期の交通路管理
宗 周太郎
古代交通史について、具体的な道路や水路の位置やその変遷といった歴史地理学的研究は豊富であり、車などの交通に関する技術についても少なからぬ研究蓄積がある。一方で、交通をどのように管理してきたかといった観点からの研究は少なく、馳道研究など個別の問題に関する研究を除けば、人々の交通がどのように管理されていたかは不明瞭な点が多い。例外的に漢代通関制度については、西北漢簡の研究を中心とする研究蓄積があるが、道路を含めた交通路全体の管理といった観点からは、最新史料を網羅して検討した考察はない。だが、近年出土した簡牘史料によれば、秦漢代においてどのように交通路を管理していたかといった新たな知見を得ることが出来る。
本報告では交通路をどのように管理したかという観点から戦国秦漢期の交通の様相を明らかにする。特に新出の簡牘史料に基づき、どのような交通行政を行っていたかを検討する。まず、道路整備といった交通インフラの整備について、伝世史料に加え秦漢期の法律条文を検討し、時令説の影響と官吏の責務としての道路整備の側面を示す。また、里耶秦簡の事例から、土木工事や道路整備の実例を挙げ、除道についての考察を行う。そのほか宿泊施設など交通路線上に存在する施設の管理から、交通路の管理がどのように行われていたかの一端を明らかにし、その特徴を考察する。
戸調制から「均田」課税へ
岡田 和一郎
太和年間(477~499)に創出された「均田」制において、北魏はなぜ均等課税方式を採用したのか。
北魏建国時の課税方式は、西晋の戸調制をひとつのモデルにしたと考えられる。西晋の戸調制とは百姓の階層差を前提とした課税方式のことで、その課税原理は百姓の家産評価額に基づいた戸等に応じて税を徴収する不均等課税にあった。この戸調制は、後漢時代に百姓の階層分化拡大などを背景として財政上重要な役割を果たした「賦斂」を土台に曹操政権が定制化したものと考えられている。
「均田」制成立以前の北魏の課税体系については不明な点が多いものの、三代太武帝期になると「郷邑三老」が百姓の家産評価額に基づいて課税額を定める詔勅が出てくる。従来、この西晋の戸調制に準じた課税方式が「均田」制施行まで続くと考えられてきた。しかしながら、「均田」制とほぼ同時に施行された三長制の詔勅には、租税輸送は戸等に基づいたものの、これまでの租税・力役は貧富や口数に関わらず、戸ごとに均一であったと記されている。このことから太武帝期の課税方式は臨時のものであるとともに、「均田」制成立以前には戸等に基づく不均等課税方式ではなく、戸を単位とした均等課税方式が採られていたことがわかる。
それでは、いつから北魏では均等課税方式を採用し、どのように「均田」制の課税方式に引き継がれたのか。さらには、北魏期においても百姓の階層分化の事例は史料に頻出するにもかかわらず、北魏国家はなぜ「均田」制・三長制施行時に、家産に基づかない均等課税方式を採用したのか。本報告では北魏における百姓把握の動向や延興年間(471~476)に成立した編戸百姓の徭役制に着目して、以上の課題に迫ることにしたい。
清末東三省の建省と官制改革
閻 立
1907年4月、それまで八旗軍政体制を実施していた奉天、吉林、黒龍江各地域は内地十八省と同様に行省制を導入し、将軍と副都統のかわりに総督と巡撫を設置した。行省制導入に従って様々な官制改革が行われた。こうした東三省の建省改制の背景には、日露戦争以後の当該地域における清朝の主権確保という目的があったと考えられる。そのほかの理由として、清朝政府が主導する新政改革が予備立憲の段階に入ったため、中央官制改革と地方官制改革が進んでいたことが考えられる。
東三省の建省改制について、これまでの研究が特に注目してきたのは、建省の直前において盛京将軍の趙爾巽が奉天で行った様々な取り組みと、初代東三省総督の徐世昌が就任後推進した行政改革の内容であった。一方、東三省建省改制に直接影響を与えた1906年末の載振と徐世昌による東三省での考察についてはあまり検討されていない。そして、全国の地方官制改革のモデルケースとされた東三省の官制改革は、現実にモデルとしての役割を果たしたのか、そのあとなぜ修正されたのか、また当時の社会は東三省の建省改制をどう評価していたのかなどの問題が残されている。
本報告では、日露戦争後に東三省が直面していた国際情勢および光緒朝から宣統朝への交替に伴う清朝内部の権力闘争も踏まえつつ、こうした問題について検討してみたい。そしてこれを通して、清末の新政改革における東三省の建省改制の意義について考察してみたい。
イスラーム初期史における異端者像の「構築」とその「利用」
――「ズィンディーク」と呼ばれるならず者の分析から――
田中 悠子
イスラームにおける「異端」は、これまであまりまとまった研究がされてこなかった。その理由は、「正統」を代表する明確な主体が存在しないイスラームにおいて、キリスト教のような正統対異端の二項対立が想定し得ないためである。しかし「異端」に通ずる用語がムスリム著者の文献の至る所に散見されることも事実であり、イスラームにおける「異端」や「異端者」の存在を無視することはできない。
以上の問題意識のもと、本報告では、ある種の異端者を意味する「ズィンディーク」という呼称について考察する。この呼称についてはいくつかの先行研究があるが、いずれも時代や著者による意味変化を考慮していないという問題があった。本報告では、ズィンディークの元来の意味は「マニ教徒」であるが、イスラーム初期にはその意味が一旦忘却されたこと、ヒジュラ暦四世紀頃に本来の意味が思い出されたことを初期のアラビア語辞書から示す。また、この意味変化に平行して、預言者ムハンマドに対抗したクライシュ族や、シーア派の一派イスマーイール派に対してこの語が適用された事例を紹介する。重要なのは、こうした使用例の中で、個別具体的な集団ではなく抽象的な「異端者」としての「ズィンディーク」像が構築され、書き手の求める叙述的役割を果たしていることである。本報告は、そうした実態を持たない「異端者」のイメージ像が歴史的に一定の機能を果たしてきたことを示すものである。
前近代カイロの都市水利と行政慣行
――エジプト国立文書館所蔵「水利請願書‘arḍḥāl」 に見る運河整備を中心として――
𠮷村 武典
本報告では、ムハンマド・アリー統治期(r. 1805-1848)の前半、1804〜1834年に作成されたナイル川の水利に関する「請願書( ‘arḍḥāl)」を取り上げる。この水利に関する「請願書」は、エジプト国立文書館(Dār al-Wathā’iq al-Qawmīyya)に所蔵され、まとまったフォンドに整理されている。それぞれの文書ではエジプトの主都カイロを中心とした運河網の修繕、ナイル川水位測量所(miqyās)の維持・管理、近郊農村の灌漑水利施設の改修などを案件とし、それらを担当する行政官からの予算の「請願」、歳出を担当する部局(rūznāma)による経費の確認、そして総督(wālī) であるムハンマド・アリーの裁可が一つの文書にまとめて記載されており、請願書提出から許可までの行政手続きの流れを見ることができる。その他に、改修工事に関わる労働者の日当計算書、裁判官による法的な認定などの添付資料も含まれており、水利事業に関わる様々なアクターの姿も垣間見える興味深い文書史料群である。本史料から、これまで詳細が明らかとされてこなかったマムルーク朝からオスマン朝へと受け継がれ、維持されたと考えられる前近代のカイロの都市水利インフラの維持・管理、行政の手続きに関する慣行について考察を加えたい。
19世紀後半の北スラウェシ・マナドにおける貿易構造の変容
太田 淳
東南アジアから世界市場向けの産品輸出についてはかつてよりよく知られており、近年ではアジア間貿易の研究が進んだが、この両者の関係についてはさらに検討が必要である。マナドでは1850年代からマニラ向けカカオの輸出が伸び、1860年代にはオランダ向けコーヒーを中心に輸出が急増した。こうして世界市場向けの商品作物の生産と貿易が増えるにつれ、マナドにはオランダをはじめとする欧米諸国の大型船来航が増えるが、興味深いことに小型のアジア船(おそらく近隣の島々からの船)によるマルク諸島などへの輸出も急増した。マナドでオランダ船は、シンガポールや本国などから雑貨、綿布、米などを輸入し、これらはマナド周辺の島々でも消費されたと思われる(とくに米はマナドで輸出余力があるため再輸出用と考えられる)。マナドからのオランダ船による輸出にはサラワクのアヘンなども含まれ、これもマナドおよび周辺地域での消費用であろう。つまり、マナドにおいて欧米船による貿易の増加は、マナド周辺で必要とされる輸入物資の輸入を促進し、それらの周辺諸港への再輸出に近隣のアジア船も参加した。オランダ船もまた、マナド周辺で消費される産品の輸入や再輸出に関わった。こうして欧米船がマナドで世界市場向けの産品を輸出するために貿易を拡大したことは、マナドと近隣諸島のあいだのローカルな貿易を促進する効果もあったことが分かる。
宋銭と為替から見た東アジア経済史
井上 正夫
従来の研究では、一般に、貨幣発展とは、銀貨流通から金貨流通、さらには(金本位制を基礎とした)紙幣流通への移行の有無をもって論じられてきた。そのために、中国の銅銭―卑金属貨幣―は、経済発展の未成熟性を示すものとして理解される傾向があった。一方、一一世紀以降の紙幣流通も不換紙幣的性格ばかりが強調され経済発展の指標とは見なされてこなかった。
しかし、第一に、中国の一〇世紀以降一六世紀に至る貨幣流通の変化を見てみるならば、銀の貨幣的流通開始には経済的発展の要素はなく、むしろ社会混乱の中でやむなく銀が選択されたに過ぎない。第二に、現代社会でも紙幣はまったく金との交換性はなく、管理通貨制度という名の下で、本来無価値な紙片や記号が使用されており、それは元代と同じである。
それゆえ、一一世紀以降、宋銭流通を基盤に、中国で紙幣が発生し、一三世紀以降、日本でも為替が発達したことは、経済発展の一指標として認めるべきである。ただし、中国では、一五世紀以降、紙幣の流通が崩壊していったために、対外的に無価値な紙片を受納させ世界を金融面で支配していくことはできなかった。それは、後に西欧勢力によって成し遂げられ、東アジアはその従属下に編入された―今も従属している―とはいえ、少なくとも一五世紀以前の宋銭流通やそれを基盤とした為替制度発生と紙幣流通は、単純に経済発展の現象の一つとして評価し再検討すべきである。
清代中期の長崎貿易における中国商品の流通経路
――商品の商標・広告などを手掛かりに――
劉 序楓
近世の長崎貿易について、従来日本及びオランダ側の資料に基づき、貿易制度や特定の商品、とりわけ銅・海産物・薬材などの研究がなされてきたが、中国側の現存史料の制約により、中国からの輸入商品の内容及びその流通経路などの詳細については明らかにされていないところが多い。本報告では、今まで注目されていない日本現存の18世紀後半から19世紀中期頃まで輸入された中国商品の商標・広告・印記などを手掛かりに、商品の内容・産地および商号の所在地を整理して、当時中国から日本に輸出された商品の流通経路を考察したい。
これらの商標と広告類の資料の分析を通しておよそ次の数点が指摘できる。
一、広告文などの説明によって商品の内容と用途を理解することができるほか、商品の原産地および生産者、または 販売者の屋号が表示されているので、清代の商品流通の研究にも役に立つ。
二、現存の資料を見る限り、輸出商品のほとんどに広告宣伝に表示する商標が付されていたので、当時の商品経済の 発達や同種類商品の市場競争関係を窺うことができる。
三、多くの商号が蘇州に店を構え、蘇州城の内外に商人の会館や公所が密集していたことがわかり、当時の繁栄ぶり を窺うことができる。輸出商品の多くはまず陸路または運河水路を利用して蘇州に運ばれるが、福建・広東から の商品は海路で直接浙江省の乍浦港に運ばれた。蘇州の外港としての機能を果たしていた乍浦は、対日貿易の有 利な条件を活かして、清代中期東南沿海の重要な貿易港として発展した。
天朝の理念と戦略としての朝貢関係
岩井 茂樹
明は洪武元年から周辺諸国へ使節をおくり,建国を通知するとともに朝貢を要求した。この外交活動の特異性は見過ごされてきた。それが中国において通時的であった天朝の理念によって駆動されたと考えることは不十分であろう。
まず,儒学における華夷と正統の認識が元の支配のもとで変化していたことに注目すべきである。明が天命を継承したことの承認を得るためには,モンゴル帝国が現出させた混一天下を儀礼の場において演出することを迫られていた。また,臣従させるべき諸国も,朝貢国としてひとしなみだったわけではない。当時の国際環境における中国と相手国との関係におうじて,交渉の方法を選択するという外交戦略の存在を見いだすことができる。
建国初期には朝貢を実現するため武力恫喝すら惜しまなかったが,洪武八年(1375)には「譎詐」を口実として多くの南洋諸国の朝貢を停止した。この措置は,その前年に市舶司を廃止したことと関連していたと考えられるし,洪武十五年の「行移勘合」の制をその翌年から南洋諸国に適用したことの背景でもあった。洪武末年には,海禁の実質化のために国内で舶来物品を使うことを禁止するに至るが,この措置によって朝貢貿易が縮小すると,ジャワや三仏斉(マレー諸国)に圧力をかけるにいたった。
明の朝貢関係は,流動する状況と相手におうじて選択される戦略上の関係として構築され,運用されていたと考えるべきであろう。